スパチャやグッズ購入など、
推しにお金を使う場面で、
他のファンの行動が気になったことはありませんか?
| 例えば、 明らかに「推しの気を引きたい」という理由で スパチャや課金をしているように見える場面。 |
別に、それがダメだとは言わない。
言わないけれど、
なぜか心に引っかかる。
モヤモヤしてしまう。
そして同時に、
「じゃあ自分の推し活はどうなんだろう?」
と、考えてしまうこともあるはずです。
推しを応援したい気持ちは本物なのに、
その中に
| 「認識してほしい」 「かまってほしい」 「喜ばせてもらいたい」 |
といった感情が混ざっている気がして、
それをどこか後ろめたく感じてしまう。
そもそも、
推し活って「誰のため」にしているのでしょうか?

私はこれまで、
約6年間推し活を続けてきました。
その中で、
| 「推しのために推すのが正しい」 「自分の欲求のために推すのは、あまり健全ではない」 |
そう考えていた時期もあります。
実際、推し活を続ける中で、
悩んだり、迷ったり、
自分の気持ちが分からなくなったことも何度もありました。
ただ、そうした紆余曲折を経たからこそ、
今はひとつ、
「こう考えるようになった」
という結論があります。
この記事では、
私自身の推し活の経験をもとに、
「推し活の意味」について、
一つの考え方として整理してみたいと思います。
正解を押し付けるつもりはありません。
あなたが自分の推し活を振り返る
小さなヒントになれば嬉しいです。

筆者:れっくす
VTuber絵夢アリスガチ恋勢(ガチ恋歴約6年)
推し活でのモヤモヤを軽くする考え方を発信するベストセラー推し活作家。ABEMA Primeなど複数のメディアに出演。
※この記事はVTuberさんへの推し活をイメージして執筆しておりますが、他ジャンルでの推し活をしている方にもお楽しみいただけます
「推しのため」が正義だと思っていた話
私自身、
推し活歴5年目くらいまでは、
「推しのために推すこと」こそが正しい姿だと考えていました。
推しを応援する以上、
そこに私欲が混ざるのは良くない。
「自分が満たされたいから推す」のは、
どこか健全ではない気がしていたのです。
だから当時の私は、
無意識のうちにこんな線引きをしていました。
| 「推しのために推すことは良いファンの証」 「自分の欲求のために推すのは、あまり良くない」 |
今思えば、
かなりストイックな考え方だったと思います。
きっと、
推しへのリスペクトが強かったからこそ
そう考えていたのだと思います。
| 「推しにとって負担になりたくない」 「厄介なファンにはなりたくない」 「善良なファンで在りたい」 |

そんな気持ちが、
「推しのため」という価値観を
自分の中で強く正義化していきました。
その結果、
推し活をする中で生まれる
自分の感情――
嬉しい。
楽しい。
大好き。
そういった気持ちすら、
どこかで
「これは自分本位なんじゃないか?」
と疑うようになっていったのです。
そして、
推し活を続ける中で、
悩んだり、迷ったり、
どのように応援すればいいのか分からなくなることも
何度もありました。
それでも当時の私は、
その違和感を深く掘り下げることはせず、
「推しのために我慢するのが正解」
と、自分に言い聞かせていた気がします。
スパチャに感じていた違和感
当時の私にとって、
その価値観が一番はっきり表れていたのが
YouTube配信でのスパチャ(スーパーチャット)でした。
スパチャをする理由には、
いろいろな動機があります。
- 推しを応援したい
- 活動の支えになりたい
- 喜んでほしい
一方で、
- 認識してほしい
- かまってほしい
- 自分の存在をアピールしたい
実際には、
このような気持ちが混ざり合っています。
でも当時の私は、
この「混ざり合う気持ち」を
かなり厳しく見ていました。
無意識のうちに、
スパチャの動機を
こんなふうに分けていたのです。
「推しを喜ばせたい」スパチャは綺麗
「自分が満たされたい」スパチャは汚い

今思えば、
かなり極端な線引きでした。
| 推しの役に立ちたい。 推しの笑顔が見たい。 |
そう思って送るスパチャは
「純粋」で、
そこに自分の欲求が混ざると
一気に「不純」になる。
そんな感覚を、
私はどこかで持っていたのだと思います。
だから、
配信を見ていて
| 「明らかに認知目的だな」 「かまってもらいたそうだな」 |
と感じるスパチャを目にすると、
心がざわついていました。
その人を否定したいわけじゃない。
迷惑だと言いたいわけでもない。
ただ、
どこか引っかかる。
モヤっとしてしまう。
そして同時に、
こんな考えが浮かぶようになりました。
「じゃあ、自分はどうなんだろう?」
自分のスパチャは、
本当に「推しのため」だけだろうか?
そこに
「嬉しくなりたい」
「喜ばれたい」
という気持ちは、
一切混ざっていないと言い切れるだろうか?
考えれば考えるほど、
その境界線は
どんどん曖昧になっていきました。
「推しを喜ばせたい」という気持ちも、
突き詰めれば
自分がその姿を見て嬉しくなるから
生まれている感情です。
そう考えたとき、
私は少し混乱しました。
これまで
「推しのため」と
「自分のため」を
はっきり分けて考えてきたけれど、
もしかして、
その二つは
最初からそんなに
きっぱり分かれるものじゃないんじゃないか。
そんな違和感が、
少しずつ、
でも確実に
心の中に溜まっていったのです。
それって本当に「推しのため」?
考えれば考えるほど、
私はあることに気づき始めました。
「推しのためにやっている」と思っていた行動も、
その奥を辿っていくと、
必ず自分の感情に行き着く、ということです。
| 推しを喜ばせたい。 推しの笑顔が見たい。 |
それはとても綺麗な気持ちです。
でも同時に、
その笑顔を見て
| 「自分が嬉しくなる」 「自分が満たされる」 |
からこそ、
生まれている感情でもあります。
もし仮に、
推しが喜んでも
自分の心がまったく動かないとしたら、
果たして同じ熱量で
応援し続けられるでしょうか?
少なくとも私は、
そうではありませんでした。
| 推しの配信を見て元気をもらう。 推しの言葉に救われる。 推しが楽しそうにしている姿を見て、 「明日も頑張ろう」と思える。 |
そうやって、
推し活は確実に
自分自身の人生を支えてくれていたのです。
その事実を前にして、
私はようやく気づきました。
「推しのため」と
「自分のため」を
無理やり切り分けようとしていたけれど、
そもそもその二つは、
最初から絡み合っているものなんじゃないか、と。
推しのためにやっている行動が、
同時に自分も救っている。
自分のために続けている推し活が、
結果として推しの支えにもなっている。

その関係性は、
白か黒かで割り切れるものではありません。
むしろ、
どちらか一方だけに偏ってしまったときに、
推し活は苦しくなるのだと思います。
「推しのためだから」と
自分の感情を押し殺す。
「自分のためだから」と
推しへのリスペクトを忘れてしまう。
どちらも、
長く続ける推し活としては
少し無理がある。
そう考えるようになってから、
私は
「推し活は誰のためか?」
という問いに、
無理に答えを出そうとするのをやめました。
推しのためでもある。
自分のためでもある。
その両方が重なっている状態こそが、
私にとって一番しっくりくる
推し活の形だったのです。
改めて考える「推し活の意味」
こうして振り返ってみると、
私の推し活は、
いつの間にかずいぶん楽になっていました。
「推しのために」とだけ考えて、
自分の感情をできるだけ排除しようとしていた頃よりも、
「推しのためでもあり、自分のためでもある」
そう受け止められるようになってからの方が、
不思議と、気楽に続けられているのです。
| 頑張らなきゃ。 我慢しなきゃ。 ちゃんとしたファンでいなきゃ。 |
そうやって無理に力を入れていたときは、
気づかないうちに心が疲れていて、
どこかで推し活そのものが苦しくなっていました。
今思えば、
それは「推しのため」だったというより、
「推しのためでなければならない」と
自分に言い聞かせていた状態だったのかもしれません。
一方で今は、
気が向いたときに、
気が向いた分だけ、
純粋に楽しいと思える距離で推しと向き合えています。
それは決して、
推しへのリスペクトが薄れたからではありません。
むしろ、
自分の気持ちを大切にするようになったからこそ、
無理なく、誠実に、
推しを応援し続けられている感覚があります。
考えてみれば、
推し活は最初から
「誰か一方のため」だけで成り立つものではなかったのだと思います。
推しを応援する行動は、
同時に自分の心を支えていて。
自分のために続けている推し活は、
結果として推しの支えにもなっている。
その二つは、
きれいに切り分けられるものではなく、
最初から重なり合っていたのではないでしょうか。
だから今の私にとっての
「推し活の意味」は、
どちらかを選ぶことではありません。
| 推しのためでもあり、 自分のためでもある。 |
その両方が無理なく重なっている状態で、
推しと向き合い続けられること。
そして、
推しだけでなく自分の人生も支えること。
それこそが、
私が辿り着いた
「推し活の意味」なのだと思っています。
自分にとっての「推し活の意味」を考える
ここまで読んでくれたあなたは、
どうすれば“正しいファン”になれるか、ではなく、
自分は、どんな距離感で、どんな気持ちで推しと向き合いたいのか。
そのことを、静かに考え始めているのではないでしょうか。
書籍
『推し活大全完全版~究極の推し活アーカイブス~』は、
あなたがあなた自身と向き合い、
あなただけの「推し活の意味」を考えるきっかけとして最適なツールです。
この書籍に書いてあるのは、
私が約6年の推し活の中で悩んで、迷って、立ち止まって、
その都度考えてきた
推し活にまつわる、たくさんの「考え方」です。
どれか一つを信じてほしいわけでも、
その通りに真似してほしいわけでもありません。
ただ、
「こういう考え方もあるんだ」
「自分はこっちの方が近いかもしれない」
そんなふうに、
自分の気持ちを整理するための材料として
使ってもらえたら嬉しいと思っています。
推し活は、
人と比べて決めるものでも、
誰かの基準に合わせるものでもありません。
迷ったとき、
少し苦しくなったとき、
また自分と向き合いたくなったとき。
もし必要だと感じたら、
『推し活大全完全版』を、
あなた自身のペースで開いてみてください。
この記事と同じように、
あなたがあなたの推し活を考えるための
一つの場所になれたら、
それ以上に嬉しいことはありません。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました!




